弊社釣針の歴史。

2019年01月15日

最初に書いておきますが信憑性に確たる自信は有りません。

口伝とネットと私の知り得る知識で語ります。
弊社HPの会社概要ページの沿革1860年代部分の追記と言うか関連話です。

弊社初代が大坂の堺の刀鍛冶から熱処理技術を学びました。
それ以前に高知(以後、土佐)の城下町で釣針を造っていた方が居ました。
土佐は播州と商業的つながりが有ったようで(「はりまや」=「播磨屋」から察せますね)
その方の技術が播磨圏に伝わったとのこと。
現在では遊漁用釣針の一大生産地になっております。

その方から技術を伝授されたマグロ延縄用の釣針メーカーさんが室戸に有りました。
(私の曽祖父が、そう語っていたようです)
現在は造られていないようですが。

その話を聞いて「何故、同じ土佐なのに弊社は堺から?」と思いました。
そこから自分勝手に想像しました。

一番の要因は甲浦だから

つまりは高知県の最東端で有るから。
つまりは大阪と水路で繋がれる窓口だから。

だからこそ下級藩士の初代は大坂に出向させられてたんでしょう。
もっとハッキリ言えば藩の城下町に行くより大坂の方が近かったと

甲浦って言葉が土佐弁じゃないんですよね。
高知側に一山越えた地区になると土佐弁ですが甲浦は微妙に阿波弁が混じってますし。
大昔から甲浦は土佐で有りながら土佐っぽく無かったのかもしれません。
しかし、そのおかげで?初代が技術を学べたので今が有る。と思うと少し不思議な感じです。

ちなみに私は甲浦出身で学生時代に転々としたので土佐弁じゃない関西弁でもない変な言葉です(゚∀゚;